「実は、母が遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)と診断されました。私も将来、乳がんや卵巣がんを患う可能性はあるでしょうか」。そう打ち明ける女性の言葉にじっと耳を傾けるのは、岡崎市民病院のがんセンターに所属する認定遺伝カウンセラー、岡村春江である。遺伝性乳がん卵巣がん症候群は生まれつきの体質で乳がんに罹りやすく、同時に、卵巣がんにも罹りやすい疾患である。遺伝性のがんの多くは、親から子に2分の1の確率で遺伝的体質が受け継がれる。親の遺伝子変異は必ず子どもに受け継がれるわけではないが、もし同じ遺伝子変異が見つかれば、将来、がんを発症するリスクは高い。
しかし、朗報もある。遺伝性乳がん卵巣がん症候群は令和2年4月、遺伝学的検査・診断から遺伝カウンセリング、乳房・卵巣の予防的切除までの一連の流れの多くが保険診療として認められたのだ。岡村はそうしたことも踏まえ、保険の範囲で検査や診療を受けることができること、さらに、がん予防のために定期的な検査(サーベイランス)を受けていくこともできることなどを説明した。「この保険適用は、がんゲノム医療を普及させる上で大きな出来事でした。しかも、まだ病気を発症していない部位(乳房・卵巣)を予防的に切除する治療にも保険が認められたことは、非常に画期的だと思います。これまでは自由診療で敷居の高かった遺伝子の検査が身近なものになり、思い切って検査を受けたり、乳房や卵巣の予防的切除を検討する方も増えています」と、岡村は話す。
このように岡村のもとには、親や自分が遺伝性がんを発症したことから、遺伝医療について相談を寄せる人が訪れる。岡村はそれぞれの気持ちに寄り添い、最新の遺伝医学や遺伝情報の倫理的課題を踏まえて丁寧にカウンセリングを行っている。とくに心がけているのは、家族歴を細かく聞き出すことだという。「たとえば乳がんだと母親の家系に注目しがちですが、実は父方の叔母、祖母などが乳がんであるケースもあります。家族歴をしっかりとることで、ご本人の予防や治療に役立てるよう努めています」(岡村)。
がんゲノム医療には、前項で述べたように、遺伝的体質を調べて将来の発症を防ぐ「個別化予防」と、がんの薬物療法が必要な人を対象に、がんの遺伝子の変異を調べ、最適な治療薬を選定する「個別化治療」がある。この個別化治療の分野においても、保険適用の枠が広がっている。まず令和元年6月、がん遺伝子パネル検査(100種類以上のがん遺伝子の変異を網羅的に同時に調べる検査)が保険収載された。さらに令和3年8月、血液による遺伝子パネル検査も保険適用となり、組織を採取できない固形がんでも検査できるようになった。「保険適用が広がり、より多くの人が遺伝子の検査を受けやすくなりました。対象の患者さんに、検査の意思を尋ねると、多くの方が受けるとおっしゃいます」。そう語るのは、がんセンター長の村田 透である。
がんゲノム医療にかける患者の期待は熱い。しかしながら、遺伝子パネル検査を受けても、新しい治療薬を使えるとは限らない。「NCCオンコパネル(日本人のがんで多く変異が見られる遺伝子124個について調べるもの)を用いた臨床試験では、治療薬が選択された場合は十数%に過ぎません。また、検査から治療開始までの時間がかかり過ぎるなどの課題もあり、検査をしても恩恵に与るケースは少ないのが現実です」(村田)。
がんゲノム医療はまだまだ進化の途上にある。しかし、近い将来はがん医療の一角を担っていく分野であることは間違いない。「地域に根ざした市民病院として、市民の皆さんに福音をもたらすことを目的に、がんゲノム医療にしっかり取り組んでいきたいと思います。うれしいことに、これまで当院で遺伝子パネル検査を行った7人のうち、2人に適した治療薬が見つかりました。こうした治療実績を一つでも多く積み重ねていきたいですね」。村田は明るい表情でそう締めくくった。
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