LINKED plus 病院を知ろう
岡崎市民病院
必ずやってくる南海トラフ地震、
そのときに備えて、できることを今から。
このたびの令和6年能登半島地震によりお亡くなりになられた方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
令和6年(2024年)1月1日、午後4時10分頃、能登半島で最大震度7という大地震が起きた。ちょうど自宅で休暇を過ごしていた岡崎市民病院の長谷智也医師は、地震のニュースを知り、〈震度7〉という規模の大きさに目を見張った。長谷は日本DMAT隊員であり、同院のDMATチームの責任者を務める。DMATは発災から48時間以内に活動できるよう訓練された災害派遣医療チーム。震度7の地震となれば、全国のDMAT隊員はいつでも出動できるよう準備することが決まりになっている。長谷は即座に院内のDMATチームのメンバーに連絡し、出動できる人員を募るとともに、必要な荷造りを進めた。
翌朝10時過ぎ、石川県から派遣要請の連絡。長谷たちは医師1名、看護師4名のチーム編成を組み、午後1時頃、ドクターカーで現地に向かった。DMATの活動拠点である、石川県七尾市の公立能登総合病院に到着したのは午後6時半頃。長谷たちの派遣先は、能登半島の先端部にある珠洲市総合病院に決まり、翌朝、自衛隊の先導で現地をめざし、丸一日かけて病院へ到着した。
病院の状況は、断水が続いていて、食料の備蓄もあと1日分だけ。職員は3分の1しか出勤できない状況で、全員が不眠不休で診療や看護に追われ、疲労感はマックスだった。長谷たちは、自衛隊と協力しての患者搬送を行うほか、救急外来を支援することになった。訪れる患者は、地震でけがをした人、体調を壊した人などさまざまだったが、発災直後のピークは過ぎていたので、重篤な患者は少なかった。長谷たちのサポートにより、病院職員はようやく休息をとることができた。
DMAT1隊あたりの活動期間は、移動時間を除き概ね48時間以内が基本。長谷たちは精力的に任務をこなし、後続のDMAT隊員に任務を引き継いだ上で1月5日、帰路についた。今回の経験を、長谷はこう振り返る。「珠洲市では断水が続いていたので、ケガの処置一つとっても大変でした。帰宅後、傷の部分を水で洗うのは難しいかもしれません。もう少し残って支援したいという気持ちもありましたが、後ろ髪を引かれる思いで帰りました」。
今回は、被災地の支援に出向いた長谷たちだが、予測される南海トラフ地震などが起きれば、災害拠点病院である同院は、地域のDMAT活動本部の役割を果たすことが予定されている。そのときを見据え、長谷は今回の活動を通じて幾つかの教訓を得たという。「派遣先では、病院側が優先したいことと、DMAT本部の意向が微妙にずれるケースが見受けられました。病院の災害対策本部とDMAT本部の連携をしっかりとらないと、患者さんを守ることはできません。その連携をつなぐのは私たちDMATチームの仕事だと思うので、今からしっかり準備したいと思います」。
それに続いて、長谷は災害時の継続的なサポートの重要性も強調する。「DMATは初動対応が主な役割ですが、被災した患者さんを支えるには、ピークを過ぎた後の支援体制も重要だと改めて実感しました。たとえば、今回出向いた珠洲市の各避難所には医師や看護師は常駐していなかったのですが、避難生活が続けば、感染症や慢性疾患の悪化など災害関連死のリスクが高まるので、それを防ぐ体制づくりも重要になると思います」。
南海トラフ沿いでは、大規模地震発生の切迫性が指摘され、いつ地震が起きても不思議ではないと言われている。万が一、南海トラフ地震が起きれば、岡崎市内のほとんどが震度5以上、死者数は最大約700人、全壊・焼失棟数は約16,000棟と予測されている(岡崎市のサイトより)。
「今回の能登半島地震で、私たちは改めて地震の怖さを身近に感じましたが、時間が経てば、私たちも市民のみなさんも、災害対応への気持ちが緩んでしまうのではないか、と心配しています。今回の大地震を警鐘として受け止めて、日頃から備えていきたいですね。また、災害時に試されるのは組織力です。いざというときに病院の総力を結集できるように、今からしっかり備えていこうと考えています」。
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